小简介
佐村河内 守(さむらごうち まもる、1963年9月21日 - )は、広島県出身の作曲家。
被爆者を両親として広島県佐伯郡五日市町(現在の広島市佐伯区)に生まれる。佐村河内家は能美島の出で、村上水軍の末裔と伝えられる[1]。4歳から母親からピアノの厳格なスパルタ教育を受ける。その他、幼少からヴァイオリン、尺八、マリンバなどを習い、5歳で「マリンバのためのソナチネOp.1」を作曲。小学校(広島市立五日市南小学校)4年生でベートーヴェンやバッハのピアノソナタを弾きこなし、10歳のとき「もう教えることはない」と母親から告げられて作曲家を志望。これ以後は楽式論、和声法、対位法、楽器法、管弦楽法などを独学。中学生時代は音楽求道に邁進する一方で、学年の番長との喧嘩や他校への出張抗争を繰り返す悪童でもあった。
17歳で『交響曲第1番』の作曲に着手。同年から原因不明[2]の偏頭痛や聴覚障害を発症。崇徳高等学校卒業後に上京したが現代音楽の作曲法を嫌って音楽大学には進まず、肉体労働者として働きつつ独学で作曲を学ぶ。19歳の時には失職して家賃を払えなくなり、アパートを追い出されてホームレスとなり、半年間の路上生活を送ったこともある。
1988年、ソロのロック歌手としてデビューしたが、その直後に音楽的理解者だった実弟を交通事故で失ったことがきっかけでプロダクションとの契約を解除。以後もアマチュアのロック歌手としてバンド活動を行っていたが、その頃から聴覚異常を発症し、1989年、健康上の理由でバンドから脱退。1995年から1996年まで道路清掃のアルバイトで生計を立てる。
33歳で映画『秋桜(cosmos)』の音楽を手がける。このとき、左耳は聴力を失っていた。35歳のとき、『鬼武者』のための音楽を作曲し始める直前に聴覚を失って全聾となる。『鬼武者』完成後、自らの聴覚障害を初めて公表。長らく聴覚障害を隠していた理由について、自身は「耳の不自由な作曲家の作品には、同情票がつくであろうこと。それだけはどうしても避けたかったのです」「『聴覚障害を売り物にした』という誤解も避けられないだろう」[3]と説明している。
抑鬱神経症や不安神経症、常にボイラー室に閉じ込められているかのような轟音が頭に鳴り響く頭鳴症、耳鳴り発作、腱鞘炎などに苦しみつつ、絶対音感を頼りに作曲を続ける。特に頭鳴症による耳鳴りについて、佐村河内は「父と母が、そして歴史が聞いた『原爆の音』。それを私の血がいま、聞いているのかもしれません」[4]と述べている。光を浴びることで偏頭痛や耳鳴りの発作が誘発されるため、自宅では暗室に籠り、外出時には光を避けるためのつばの広い帽子とサングラスを着用することを余儀なくされている。
1999年、ゲームソフト『鬼武者』の音楽「交響組曲ライジング・サン」で脚光を浴びる。2002年、身体障害者手帳(感音性難聴による両耳全聾、身体障害者等級第1種2級、両耳鼓膜欠落)の交付を受ける。同じ頃から盲児のための施設にてボランティアでピアノを教える(この施設の女児の一人は、佐村河内が『交響曲第1番』の作曲を再開するにあたり彼に霊感を与え、この作品の被献呈者となった)。
2003年秋、『交響曲第1番』を完成。その直後、病苦から発作的に縊死を図るも未遂に終わる。2005年8月、『交響曲第2番』を完成。その翌日、再び縊死を図るもやはり未遂に終わる。
2008年9月1日、広島市の広島厚生年金会館ホールで行なわれた「G8議長サミット記念コンサート〜ヒロシマのメッセージを世界に〜」にて『交響曲第1番』の第1楽章と第3楽章が広島交響楽団により世界初演される。同年、広島市民表彰(市民賞)を受ける。2009年、『交響曲第1番』は芥川作曲賞の選考過程で審査員である三枝成彰が推すも最終候補とならなかった。精神科に通院し、1日に15種類の薬を服用しつつ作曲活動を行っている。2010年4月4日、大友直人指揮の東京交響楽団により、『交響曲第1番』(広島初演版による改訂版)の第1楽章と第3楽章が東京芸術劇場で演奏された。同年8月14日、秋山和慶指揮の京都市交響楽団により、『交響曲第1番